今他の方のブログを拝見していたら「わたしと英語」キャンペーンを見つけました。
「わたしと英語」について語れと言われたらかなり長い記事を書けるくらいのストーリーがあります。
なぜなら、英語は私の人生の歩みそのものだからです。
でも長すぎると鬱陶しいと思うのでなるべくまとめて書いてみたいと思います(*´艸`*)
- わたしと英語の出会い
- 英会話を習い始める
- 中学生になり英語の勉強中心に
- 高校でも英語の勉強に没頭
- 高校とは全くレベルの違った短大の英語
- ワーキングホリデーでオーストラリアへ
- 帰国後、英語を使った仕事を多数渡り歩く
- 母の他界を機に高校英語科教員を目指し通信制大学に編入
- 民間の英語学校に転職を目指しセブ留学
- 英語学校への転職が全くできず国際転職を決断
- フィリピン、セブでの転職が決まりセブに戻ることに
- 英語と韓国語のスキルを活かして転職
わたしと英語の出会い
私が初めて英語と出会ったのは3歳か4歳の時でした。
カトリック系の幼稚園に入園した時です。
この幼稚園では英語の勉強時間があって外国人から英語を習っていました。
その当時はあまり勉強といったものではなく遊びみたいな感じでしたね(*´艸`*)
英会話を習い始める
小学校に入学してからは他の習い事で忙しくなり英語からは離れていました。
5年生か6年生くらいになり自分から英語を習いたいと母に言って、私が通っていたカトリック幼稚園の教会の英語教室に通い始めました。
中学生になり英語の勉強中心に
中学校に上がったら今までなかった英語の授業が始まる
初めで英語につまづいたら3年間大変なことになる
そう思った私は英語に多くの時間を費やし勉強しました。
そして、学校で「サウンド・オブ・ミュージック」を見た時の事です。
主人公のマリアが自己紹介したのをハッキリと聞き取れた時にとても嬉しかったのを覚えています。
その経験から、やればできるようになる!と思った私はそれまで以上に英語の勉強をしました。
テストでも100点を取れるようになりました。
高校でも英語の勉強に没頭
英語の成績は良かったですが均しにすると成績が良くなかった私は被服科へ進学しました。
職業科なので普通科よりもハンデがあります。
そこで私は、普通科の英語も自分で教科書を買って勉強、塾でも普通科の学生と一緒に勉強しました。
その当時流行っていた「ビバリーヒルズ高校白書」というアメリカのドラマを見て衝撃を受けました。
その頃から将来はアメリカ留学して現地の生活をしてみたいと強く思うようになりました。
そこから更に英語の勉強に熱を上げ、短大の英文科に進学することを目標にしました。
一般入試で受験することにした私は、担任承認の元英語にだけ集中することにしました。
その結果、模試では合格判定EからAになり第一志望の短大を受験し合格しました。
高校とは全くレベルの違った短大の英語
第一志望の短大の英文科に晴れて合格し、短大に通い始めた私は大きな挫折を味わいました。
私がやっとの思いで合格した短大を滑り止めで受けて入学した子もたくさんいたのです。
帰国子女や留学経験者もいました。
当然のことながらレベルが高いわけです。
高校までは取ったことがない40点なんて点数も一度や二度ではなく取りました。
多くの教科書が英語で書いてあり、試験範囲も100ページ超え・・・
とんでもない所に来てしまったものだと思いました。
それでも必死に勉強して何とか卒業しました。
ちなみに、もうだいぶ前ですがNHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」の村岡花子さんが通っていた学校です。
ワーキングホリデーでオーストラリアへ
短大卒業後、地元の金融機関に就職したものの約2年半で退職しました。
23歳でオーストラリアのワーキングホリデービザを取得しゴールドコーストへ。
現地の語学学校に通う毎日はそれまでの人生で一番楽しかったです。
初めは話すことに慣れていなかったため大変な事もありましたが、1か月を過ぎた頃からは慣れました。
1年後、ビジネスカレッジに入学しましたが、経済的な理由で継続できずやめることになってしまいました。
帰国後、英語を使った仕事を多数渡り歩く
帰国後は派遣社員として15年ほど働きました。
その間、塾講師、外資系企業、大学の国際交流課、日本企業の貿易事務等、英語スキルを求められるポジションで主に働きました。
母の他界を機に高校英語科教員を目指し通信制大学に編入
母が他界して弟は転勤中だったため父がひとりになり、私は地元で働くことにしました。
地元で英語を活かせ安定している仕事は教員しかない
そう思った私は高校の英語教員免許状と学士号取得を目指し34歳で通信制大学の英文学科の3年次に編入しました。
韓国語講師として働きながら5年かけて学士号取得、教職課程も無事修了しました。
しかしながら、教育実習で教育の現場を見て私が進むべき道ではないと思い教員の道はやめました。
民間の英語学校に転職を目指しセブ留学
大学卒業後、教員ではなく民間の英語学校に転職を目指し英語力のブラッシュアップの為セブ留学を決断。
セブに3週間留学しみっちり英語を学びました。
英語学校への転職が全くできず国際転職を決断
セブ留学後、英語学校への転職を目指し転職活動を始めるも全く決まりませんでした。
これ以上無職期間を長引かせたくない
そう思った頃、フィリピンは就職が簡単にできるらしいという話を聞きました。
そこで私は、無職でいるより英語スキルを活かせるのであればフィリピンで就職する方が良いと思いフィリピンへ戻ることを決断。
フィリピン、セブでの転職が決まりセブに戻ることに
4社受けた会社から外資系ITコンサルティング企業に転職先を決めセブに移住。
20年ぶりに正社員として雇用され、グローバル企業でフィリピン人達と働きました。
もちろん公用語は英語で日々日本語と英語を使いながら仕事をこなしました。
日常生活でも現地語が分からないので英語を使っています。
英語と韓国語のスキルを活かして転職
前職で勤務していた頃、ご縁があって一日だけ韓国語通訳の仕事を引き受けました。
その時の依頼主から、私が転職するタイミングでジョブオファーを頂き転職することに。
地獄のような12時間勤務から解放され、今はストレスなく毎日働きながらも自由な時間も確保できるようになりました。
こうして見てみると、私が今生きていけるのは英語スキルがあったからこそです。
今までの社会人人生で何度か失業もし、一般的な人よりは面倒な人生だったように思います。
ですが、なんだかんだと英語のスキルがあって次の道を切り開けたように思います。
私が韓国語と出会ったのも、私が英語に興味を持ち、英語の勉強を一生懸命しオーストラリアに行ったからです。
私の人生は今後も英語なしには成り立たないだろうと思います。
なぜなら、今後も海外で住み続けるつもりだからです。
きっと死ぬまでわたしと英語は縁が切れることはないでしょう。
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