サワディかなぴー(^O^)
昨日の記事のブックマーク、スターありがとうございます。
今日はこれから日本時間の6時半にお弁当屋さんに行きます。
さて、私がタイのチェンマイに来て早いもので3年目に入りました。
その前にはフィリピンのセブ島に5年半住んでいました。
日本にいた私がなぜ40歳になってセブ島に移住、そしてチェンマイ移住することになったのか?
今回の記事では、私のこれまでの人生について書こうと思いますが、一部省略してもかなり長いため今回はセブ移住の部分だけ書こうと思います。
長い記事なので、興味のある方だけお付き合いください(※書いてからこの部分追記)。
過去の記事でも少し書きましたが、20代でオーストラリア、30代で韓国にも住んでいたことがあります。
コロナが流行り始めた頃からリモートワークというワークスタイルが出始め、パソコンひとつあればどこでも働けるようになりました。
ですが、私がまだ若かった頃はそんな働き方はなかったので、海外に行くということは仕事を辞める、という時代でした。
私は短大卒業後、東京から地元の新潟県に戻り銀行に就職しました。
ですが、2年半ほどで辞めてオーストラリアに行きました。
多くの日本人の方は多少の違いはあれど、以下のような人生を歩んで来られているのではないかと思います。
大学等を卒業
就職
結婚
出産
子育て
マイホーム購入
定年退職、早期退職
老後の生活
人生のレールとも言われる日本人の生き方の基本モデルですね。
私ですが、早々にこの人生のレールを外れて生きて来ました。
就職以降の項目はすべて外れています。
退職と言われる年齢にはまだなっていませんが、今後「退職=仕事から退く」「老後の生活」ということも考えていません。
人生は一人一人違って誰一人同じ人生を歩んでいる人はいませんが、友達からはかなり特殊な人生だと言われますね💦
私自身も気が付けばユニークな人生になっていたと思います。
最近はそうでもないかもしれないですが、仕事を辞めるとか転職はあまり良いイメージがないと思います。
ですが、私は長く派遣社員で働いていたので、失業&転職回数は10回超えです。
転職をするかどうかや、転職後の会社や仕事に馴染めるかなど心配で1回の転職ですら躊躇する人もいるのではないかと思います。
ですが、私にとっての失業なんてのは数年に一回のイベントなので、心配することも焦ることもありません。
そして、母の他界後、35歳で高校の英語教員を目指し通信制の大学に編入して働きながら5年かけて卒業しました。
教育実習の時点で自分は学校には向かないと実感し、民間の英語スクールで英語コーチとして働くことを目指すもどこからも採用されず断念💦
それまでの人生で就職がなかなか決まらず悩むことがなかったので、最初の挫折を40歳で経験しました。
ですが、これが私の後半人生の転機になりました。
実は、大学卒業後に英語コーチを目指した私はセブ島に短期留学したんです。
日本で就職が決まらなかったことがきっかけでフィリピン就職することにしました。
日本ではまったく就職できなかったんですが、フィリピンでは即日内定を含め、面接後辞退した会社以外はすべて内定をもらえました(∩´∀`)∩
その中から一社を選んだんですが、相手側の社長の私に対する対応に問題があって弁護士が登場するようなトラブルになり、内定は白紙に戻りました。
結局、別で内定前の段階になっていた外資系コンサルティング企業に就職を決めました。
海外就職と言うと日系企業で勤務することが多いのですが、私は外資系企業にご縁を頂きました。
勤務先は公園を挟んで自宅コンドの目の前にあったので、通勤時間は2分くらいでした。
毎日自宅にランチと昼寝に帰っていました。
セブでの生活は、日本とかなり違うので適応するまでには時間がかかりました。
今思えば修行だったと思います💦
そして、1年目に入院しましたΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン
日本にいた頃は入院はしたことがなかったのに、まさかの海外入院です💦
そして、この時の入院で出された薬がこの後約1年半苦しむきっかけになるとは・・・
入院した時に抗生物質を処方されたんですが、私の体に合わず具合が悪くなったんです。
で、薬に不信感を持ち始め、薬を出されるたびにググって調べるようになったんです。
すると副作用やら不安を感じる情報が出て来て精神的に病んでしまいパニック障害になってしまったんです。
精神科医にかかりパニック障害だと診断され、ここから約1年半ほど抗うつ剤を飲んでいました。
実は、パニック障害になるのはこれが2度目でした。
日本でも一度なったことがありました。
ですが、この時の方が症状が重くかなりキツかったです。
これは精神的に病んだ経験がないと分からない感覚だと思います。
私の場合死にたいという意味ではなく、あまりにも不安が強く日々生きていること自体が苦痛で仕方なかったです。
夜になるとやっと一日が終わるとホッとするものの、精神的に病むと自然に眠ることもできなくなるのでそれはそれで苦痛で、睡眠薬を飲んで何とか眠れるような状態でした。
こんな状態だったので、退職して日本に帰ることを希望したんですが、辞めさせてもらうことができませんでした。
何とか時短勤務で良いから勤務を続けて欲しいと言われました。
日によっては出勤しなければいけない時間なのに体が動かないような状態で出勤できないようなこともあり、チームのメンバーには迷惑をかけましたね。
ですが、何とか周りの理解と協力、サポートのおかげで少しずつ回復し薬を止めることができました。
その後は、12時間勤務で4勤3休の勤務体制で仕事ができるまでに回復しました。
この会社での勤務は、日本や日系企業とは違う上下関係のないフラットで自由な社風で私個人はあまりストレスを感じることがなかったです。
フィリピン人は陽気な気質なので、そういう面でも日本とは全く違う雰囲気がありましたね。
この会社では2年半弱勤務しましたが、12時間勤務がやはりハードで40代の私は今後続けるとなると厳しいと思い退職することにしました。
この会社で働いていた時、バイトで英韓日の通訳の仕事を受けたことがありました。
その後、その時の依頼主の個人投資家から声が掛かり、彼のサポート業務をすることになりました。
ですが、会社を退職しようと決めた時に、自分の中で学んだ韓国語を活かして将来的には自分でビジネスをしたいと考えていました。
そこで、個人投資家の元で働く前に、韓国の大学で韓国語教員養成課程の受講を申し込んでいました。
退職後、日本への一時帰国をしてセブに戻る前にソウルの延世大学校に通いました。
延世大学校は韓国語教育のパイオニア的存在で、多くの外国人が韓国語を学んでいますが、私は教員養成課程で韓国人と共に韓国語で講義を受けました。
時期によっては外国人向けのコースもありますが、私が通ったのは韓国人向けのコースなので日本人は私だけでした💦
韓国人と共に講義を受けたり、一緒にランチを食べたり、講義後にクラスメイトと図書館やカフェで一緒に課題や宿題をしたりと5週間の間充実した学生生活を送りました。
そして、韓国語を学ぶクラスに行って、日本人や外国人相手に韓国語を教える教育実習も貴重な体験でした(*´艸`*)
大学に通いながら、韓国人が通う料理学校に週2回通って韓国家庭料理も習いました。
受講生は韓国人でレッスンもレシピもすべて韓国語なので、料理をしながら韓国語の勉強もできました。
講義が終わった後に続けて料理学校に行くのはしんどい時もありましたが、自分がやりたいことだったので楽しかったですね(^_-)-☆
5週間の大学の講義が終わり無事に修了証ももらいました。
そして、私はセブに戻り個人投資家のサポート業務を始めました。
この時が私のフリーランサーとしての人生の始まりです。
この仕事は正直すごく楽でした💦
担当業務は翻訳と現地のスタッフとのやり取りと管理、投資先会社などのミーティングのアポ取りや同行しての通訳などでした。
時給で報酬が支払われるわけではなく毎月固定で報酬をもらっていたので、仕事がなければフリータイムで自分の韓国語ビジネスに時間を充てることができました。
この仕事は順調にしていましたが、コロナの影響で事態は一変しますΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン
毎月問題なく支払われていた報酬が滞り、最初の頃は連絡が取れていたのにいつの間にか音信不通になって数カ月分の報酬が未払いのまま、彼が投資している会社から契約解除通知が来ました。
私もコロナの煽りを受けて失業しました💦
とは言え、失業は慣れたものなので何てことはなかったですが、ここから1年半ほど無職生活のスタートです。
ビザはフィリピンでは観光ビザを3年まで延長できるので問題なかったです。
この間に今の自分のビジネスの種まきをしていた感じですね。
その後、オンライン講座のカリキュラム構築コンサルタントの仕事が見つかりフリーランスの仕事を得ることができました。
と、こんな感じでセブ移住の話だけでもかなり長くなりました💦
ここから次は、なぜ私がセブからチェンマイに移住することになったのか?
については改めて書きたいと思います。
ここまで読んで下さった方ありがとうございました!
そしてお疲れさまでした!(*´艸`*)
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