みなさん、おはようございます。
日本はこの時間でももう暑いでしょうか?
セブは朝から少し曇っていて風があるので暑くないです。
さて、今日8月20日は10回目の母の命日です。
今頃父も、いつもとは違う特別な思いで仏壇の前で母に話しかけているのではないかなと想像します。
私も、日本にいた時は父と同じように仏壇の前で母に話しかけていました。
セブに来てからは、今朝もそうですが、朝起きると心の中で母に話しかけています。
私の母は10年前に肺がんで他界しました。
60歳と3カ月でした。
元々は乳がんだったのですが、肺に転移して最終的な診断は肺がんとなりました。
母はそれまで大病はもちろんあまり具合が悪いということがない元気な人でした。
それなりの歳になってから実の姉と毎年乳がん検診に行っていました。
ところが、検診で見落とされていたらしく見つかった時にはもう3年ほど経っていると言われました。
既にリンパ節に少し転移がしている状態で左側の胸を全摘出しました。
その後、抗がん剤治療や放射線治療を受けてだいぶ回復はしました。
私とオーストラリアや台湾に行けるくらいになりました。
ところが、肺に転移をしてからは具合が悪くなり本人から入院したいということもあって亡くなるまで何度か入院もしました。
母が自分の人生をどう思っていたかは分かりません。
ですが、私がそれなりの歳になって、また母が他界してから母の若い頃の話などを親戚や知人から聞くと本当に幸せな人生を歩んだとは思えないです。
なにかと気苦労の多い一生だったように思います。
むしろガンになってからの方が母にとっては幸せだったのかも知れないと最近思ったりもします。
確かにガンになって体は辛かっただろうとは思います。
ですが、病院で同じ病室だった方とすごく気が合って親しくなり遊びに行ったり旅行に出かけたりもするようになりました。
そして、それまでは、嫁の立場として言いたい事も言えないでガマンし続けていました。
ところが、ガンになってからは祖母にも「体に悪いので言いたい事を今後は言います!」と宣言しました。
私の祖母はわがままな人なので、どれだけ母が我慢し続けてきたのか大人になって私も分かりました💦
父も母を連れて頻繁に近県の温泉や旅行に出かけるようになりました。
家事も私がほぼするようになったので、母は家にいる時は自分の好きな読書や散歩などに時間を取れるようになりました。
もっと若い時からそういう精神的、時間的な自由を持たせてあげられれば良かったと後悔が残ります。
一番最後に入院した時のことが今でもすごく記憶に残っています。
私はその当時、派遣の契約が切れて職業訓練校に通いながら毎日病院に顔を出していました。
午後から顔を出したのですが、なんてことのない他愛のない話をしていました。
母が「今日は売店に行ってヨーグルトとパンを買って来て食べた」と話していました。
その時は、具合がとても良さそうでした。
しばらくそんな話をして、私がそろそろ帰ろうと思って椅子から立ち上がりました。
いつもなら、そこで「じゃあ、また明日ね」と言って私が病室を出ていました。
ところが、その日はなぜか私の後を追って廊下まで出て来ました。
そして母が私に言いました。
「○○(私の名前)ちゃん、お母さんひょっとするともうそろそろダメかも知れないわ」
突然母が母らしくもない事を言うので私は少し驚きました。
しかも、具合がとてもよく見えたので、何言ってるの~って思いました。
なので、私はその言葉をスルーして(苦笑)自宅に帰りました。
でも、それが母とした最期のまともな会話でした。
その後、夜に具合が悪くなり個室に移り人工呼吸器をつけて息をするのもすごく苦しい状態になりました。
私と父が主治医の先生に呼ばれ、あと3カ月くらいでしょうとの話を聞きました。
病室にいる母は、それまでとは違い、とても苦しそうに見えました。
ナースコールのボタンをひたすら握りしめ、ふとした瞬間にそれが手から落ちると、小さな声で「ボタンちょうだい」と私に言いました。
色々とあって、私たちとは疎遠になっていた兄も病院に顔を出しました。
正直、私たちとしては来てほしくなかったですが、親と子ですから知らせないわけにもいきません。
そんな状態が続いて、余命宣告3カ月と言われてから1週間で亡くなりました。
その日のこともよく覚えています。
私は父との付き添いを変わる準備をして出かけようとしていました。
出ようかなと思っていた時に携帯が鳴りました。
父からでした。
たった今、おかあさんが息を引き取ったとの連絡でした。
後で父が私にふとこんなことを言いました。
「人間死ぬときはアッと言う間だな・・・ものの30秒だった」
ちょうど病院に行くところだったので、私はすぐに病院に向かいました。
息を引き取った母の顔を見るとまるで寝ているようでした。
息があった時は苦しそうでしたが、もうその苦しい表情はありませんでした。
その後母の実家に連絡し、祖母とおばも来ました。
息を引き取ったばかりでまだ体に温かみがある状態で、顔と体をきれいに拭いてあげて私が死化粧をしました。
病院にエンジェルキットだったか?という化粧品があるんですね。
ドラマなんかだと、人が亡くなると取り乱して大声を出して泣いていますが、私はそんなことはその時もその後もなかったです。
なんでかと言うと、母がやっと楽になれてお疲れ様という気持ちだったからです。
あとは、私にはとにかく厳しい母でしたが、ここまで育ててくれて、色々教えてくれてありがとうという感謝の気持ちでしたね。
病院から遺体を自宅に引き取り、その後母の遺体はしばらくそのままでした。
と言うのも、ちょうど火葬場が混んでいる時期で、順番待ちだったんです。
待っている間、毎日母の顔を見ていたのですが、とある日、母の顔が微笑んでいるように変わっていたんです。
息を引き取ってから病室で見た、寝ているような表情とは全く違う、本当ににっこりとした表情になっていたんですよ!
「なんかお母さん笑ってるよ」と私が言うと他の親戚も「あら!ほんとだ!」と言いながら、やっと楽になれたのかもね~と話していました。
母が亡くなるずっと前に、母がしていた腕時計を形見としてもらいました。
母は、私がまだ20代の頃に「今すぐあげてもいいけど、若い時にしているとおかしいからあげない」と言っていました。
母が乳がんの手術を受けてから後遺症で左腕がパンパンに腫れてしまい、腕時計をはめることができなくなってしまったんです。
その時に母がくれました。
元々は父が母にプレゼントした時計です。
今でも毎日はめている時計です。
大事な大事な形見の品ですね。
腕時計は、成人した時にも、ひとつ成人祝いにもらいました。
実は、その時計は私がずっと欲しいと言っていて、自分で買おうと思っていたものでした。
既に働いてはいましたが、社会人になったばかりの私には20万ほどもする時計はちょっと贅沢品でした。
二十歳になった誕生日に母から「○○さん(宝石店)に行って来なさい」と言われたんです。
何を言っているのか良く分からないという表情をしていると母が言いました。
「コンステレーションを用意したからサイズを合わせに行っておいで」と。
喉から手が出るほど欲しかった時計だったので、その時の嬉しさは忘れていないです。
こういうことをする母でした。
普段何かをちょこちょこ買ってくれる人ではなかったですが、節目節目には値段に関係なく私が欲しいものや価値のあるものをくれる人でしたね。
毎年8月20日になるたびに、私は自分の近況報告やこれからの目標なんかを心の中で母に伝えます。
母が生きた時代は、まだまだ社会常識に沿った生き方しかできない時代だったと思います。
時代が違えば、多分母は結婚せず自分で自由に生きていたのではないかと思います。
とても優秀で行動力もある人だったので、きっと自立していたと思います。
今思うに、私は母の生き方を見て、自分はこういう生き方をしたくない、と思って今の人生を選んだように思います。
こういう人生をあの世から見て母はどう思っているかは分かりませんが・・・💦
母の早すぎる死を経験したことで、「時間は有限だ」ということを実感しました。
日一日ムダなことに時間を使わず、時間を有効に使って充実した人生を過ごしたいものです。