サワディかなぴー(^O^)
昨日の記事のブックマーク、スターありがとうございます。
はりねさん、本当に暑い日にはたまらないスムージーです(∩´∀`)∩
さて、今日8月20日は亡くなった母の16回目の命日です。
私は、母の命日の日の朝、毎年空に向かって母に今の自分の近況報告をします。
まあ、あの世から常に見て知っているかも知れないですが、今朝も朝起きてすぐにまだ暗い空見上げて近況報告しました。
15年はあっと言う間に経ちました。
母は16年前に乳がんで60歳の誕生日を迎えて数カ月後に他界しました。
毎年検診を受けていたのに、見つかった時にはステージ3でした。
その後、肺に転移が見つかりました。
私が思うに、結婚してからの積もり積もったストレスと、別のあることで心労が重なったのが原因ではないかと思っています。
私の母はとても厳しい人でしたね💦
箸の上げ下ろし、靴の脱ぎ揃え、言葉の使い方、服装など子どもの頃から厳しく躾と教育をされました。
子どもの頃から、いくつか習い事も母が決めてしましたが、ピアノと書道は高校2年が終わるまで習いそれぞれ14年、7年続けました。
私にとって母とは、先生みたいな人だった気がします。
母は、生徒会長、オール5を取るいわゆる優等生でした。
小学校の頃から勉強もすべて母から教わりましたが、引っ叩かれて泣きながら勉強しましたね💦
私は短大(英文科)受験をしましたが、母からは
"今の実力で入れるような学校に行く価値はないし今の実力も関係ない。
青山学院女子、学習院女子、東洋英和女学院のどれかに入りなさい。
そのどれにも入れないなら学費は出さない。
さっさと公務員にでもなりなさい。”
と言われました。
私は高校は職業科だったので、英語の時間は普通科よりも少なく圧倒的に不利でした。
高校の担任にも死んでも入れないと言われましたね(ヒドイ)💦
ですが、合格しました(´∀`*)ウフフ
模試で合格判定EのスタートからAになって受験して入りました。
こうして、母から多くのことを教わりながら育ちました。
自分が成長していく中で、母の考え方や価値観も当然私にインストールされました。
そして、いつの間にか常に母の反応を常に気にするようにもなり、母の考え方や価値観と母の反応が私の生きづらい人生の根本原因だったように思います。
最初の就職先は地元の銀行でした。
これも自分で決めたようで、母の反応や意見で決めたと今では思います。
世間体や待遇が良い、手堅い就職先だから・・・
でも、結局続かず3年になる前に辞めました。
その後は、オーストラリアや韓国に行ったりしながら、長く派遣社員として多くの企業で働きました。
派遣社員として働く選択やどこで働くかは自分で決めてはいたものの、常に母の反応は頭から離れなかったです。
ですが、母が他界して、もう母の反応を気にすることはなくなりました。
母にはいろいろと大事なことを教えてもらったし、今役に立っていることも多く感謝はしています。
私の今の考え方や生き方に多大な影響を与えた人です。
子どもの頃に習慣化をする習慣ができたことが、語学学習やブログ更新を毎日続けられていることにも繋がっていると思います。
これは、今思えば本当に価値のあることだと個人的には思っています。
世の中にはいくら知識やノウハウを知っていても、そもそも継続できないと結果に繋がらないことは多いので・・・
でも、母が今も生きていたら私はずっと母の顔色や反応を気にして、本当に自分の望む人生を歩むことはできなかっただろうと思います。
なので、母が他界した時にやっと自分らしく生きられると解放感を感じました。
だからと言って、母に他界して欲しかったわけでは決してありません。
今でもふと、母が生きていればな・・・と思うことが幾度となくあります。
母が他界してからが、私の本当の人生の始まりだったように思います。
母の他界が、その後の私のセブ移住、チェンマイ移住へと繋がります。
一記事で収めるつもりだったんですが、長くなりそうなのでまた別の記事にしたいと思います(^_-)-☆
私がなぜセブやチェンマイに移住することになったのか?
20代から望んでいた本願が気づいたら叶っていたΣ(・ω・ノ)ノ!
そんなことについても書こうと思います。
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